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ご連絡をくださった方へ―お礼を込めて―

ここで書く内容は思いつきのままであることがほとんどだ。


研究論文を書いていた頃は言葉一つひとつについて厳選し、吟味していたし、推敲も重ねたものだ。


一日じゅうパソコン(正確にはワープロだったが)に向かっていて、一行も文が進まない日もあった。




ところがこのブログはどうだ。


推敲はおろか、誤字、脱字もろくに確かめずに公開してしまうのだから、お気楽を飛び越えて赤面するよりほかない。


が、こんな駄文で読んでくれる人もいるのかと、おかしな話、感心している。




先ほどのことだ。


わざわざフォームを利用して連絡をくださった方がいた。


拙文をひと通り読んでくださっていて、とても興味深かったという。


お世辞でもありがたい話だ。


小論文が苦手なのだとも書いてあった(勝手にすみません!)。


たぶん高校生ぐらいなのかなと言う気がした(間違っていたらごめんなさい)。


その中に、恒常性バイアス、相対的未来とか絶対的未来についてもう少し聞きたかったというくだりがあったのでここで回答しようと思う。





上の通り、ここのブログは思いつきの走り書きみたいなものだから、だいぶ雑な内容だったと反省している。


もう少し丁寧に書くべきだったかなと思う。


言い訳をすれば、膨大な時間と分量を費やせるならともかく、ひとり仕事だということもあって、相応の意味を包含する語句に説明を委ねてしまった方が早く書き上がるのだ。


「水道、港湾、道路、電気、公共機関のような社会的に不可欠な施設や設備」と書くよりも「インフラ」と書いた方が楽だ、そういうことだ。


が、その分だけ、語句の説明が不親切になることを意味する。


結果、相手には分かりにくくなる可能性も高くなる。


そんな天邪鬼(あまのじゃく)が今回のご連絡で暴かれた気がする(笑)。





さて、余計な話はこれくらいにして、恒常性バイアス、絶対的未来、相対的未来について少しだけ補足しよう。


ただ、この辺りは私の専門ではないが、かといって知らないわけにもいかない、という程度で学んだ内容なのであしからず。





バイアスとは、偏向、偏見、偏りのことだ。


先入観と言ってもいいだろう。


先のブログでは「正常性バイアス」という言葉を使ったと記憶しているが、私はよく「恒常性バイアス」という方を好んで使っている。

(その理由はここには書き切れないので、"あてにならない"またいつか、ということで 笑)


正常性バイアスは、「正常化の偏見」とも言われる。


normalcy biasの訳語で、異常な事態、緊急な事態に直面したときに、それがまだ正常な範囲内にあると認識しようとし、判断や認識が本来の形を損なうことだ。


例えば、災害に直面したとき、「自分は大丈夫」、「自分には降りかからない」、そう考える、あるいは、考えようとする心理的作用をいう。


新型コロナの危険が叫ばれて久しいが、心のどこかで「自分がそれで命を落とすことはない」とか「自分は罹患しないだろう」と考えているとすれば、それは正常性バイアスの作用である可能性がある。




心理学における「バイアス」は、正常性バイアスだけではない。


そのひとつに、「確証バイアス」というものがある。


ある事態や事象に対して、自分にとって都合の良い情報だけを収集し、それによって自分の偏向した考えや先入観の正当性を補強する心理的作用だ。


新型コロナに関する情報は広く溢れている。肝心なことは不明瞭だったりもするが。


そして、その感染経路や感染防止対処方法にはまだ十全なる解答が出ていない部分が多々あるはずだ。


が、「~しているから大丈夫」と医学的知見や確証が薄弱なままにそれだけ強調する人にはこの確証バイアスが働いている可能性がある。


先の正常性バイアスの「自分は大丈夫」という考えに、都合の良い情報だけを収集をした自分は「~しているから」という確証バイアスによる根拠づけがおこなわれ、結果、正常性バイアスが更に補強される、という負のスパイラルが生じる場合がある。




また、コロナ対策は種々あるはずだが、「~しているから大丈夫」ということが先行して述べられると、それがあたかも他よりも優れた有効な手段であるかのように心理的近づく作用がある。


これを「アンカリング」という。


先行して刷り込み的に提示された情報によって正常な判断がゆがめられるのがアンカリングである。

(「ピザ、ピザ、ピザ・・・」と言わせて、「(ひじを指して)ここは?」と聞くと、「ひざ!」となる、あれがアンカリングの一種だ。)


もっと言えば、正常性バイアス性や確証バイアス性の強い言動を発信をする人が近くいるとき、不確定な要素について判断しかねている周囲の人々は、その正常性・確証各バイアスに依拠した言動に起因するアンカリングを受けやすいということになる。


この意味で、正常性バイアス・確証バイアスとアンカリングとの関係も看過できない。




それから、この「~しているから大丈夫」が上手くいくと、それを「自分は初めからそう思っていた」、「自分が言っていた通りだった」と言う。


こうした心理的作用を「後知恵バイアス」という。




バイアスはもっとあるが、これらはいずれも未来の予測に関する事柄である。


厳密に言えば、バイアスは「予測」に影響する―ではなくて、「予想」に影響する、と言った方がいいだろう。


「予測」というのは様々な情報や考察を積み重ねて未来を考えること―推察や推論―だが、「予想」は根拠に乏しい感覚的で主観的な見方や見解だ。




新型コロナが今後どうなるのか、膨大なデータをもとに未来を予測するとしよう。


このとき、予測される未来の像は多様に浮かび上がってくる。


その中から相対的に考えてこの方向に行くのが最も有力だろうと予測するのが相対的未来だ。


もちろん、それが当たるかどうかは確証はない。


そう有力視される、という未来の予測だ。


しかし、この相対的未来の予測は、情報や根拠の積み上げで成り立つから、見えない未来への計画や対策を立てる上では重要な作業となる。




一方で、任意に抽出したある人が将来的に新型コロナ罹患するか否かという問題は「絶対的未来」であって、それは誰にもわからない。




引き合いに出すの適切かどうか分からないが、将来的にカジノが日本で普及するか否かという相対的未来は様々な情報や推論、推察によって「予測」が立てられる。


しかし、ある人がそのカジノで勝てるか否かという絶対的未来は予測不可能、そういうことだ。


仮に「自分はカジノで勝てる」と言ったとして、それは単なる「予想」、あるいは、「予感」でしかない。


もちろん、感染予防策を講じ得るコロナへの感染可能性とカジノでの勝敗の可能性は、絶対的未来とはいえ、同一視できない部分は多々ある。


あくまで、いずれもその未来について述べられることはあくまで「予想」の範囲を超えない、という意味でのバイアスの心理の極論的な例として参考にしてもらえたらと思う。


とはいえ、カジノでさえ根拠を唱えようとする例はある。


「以前に勝った人がこうしたから勝てる」などと言う場合だ。


しかしながら、それは到底論拠とも根拠とも言えない。


偏向した理由をひとつやそこら挙げても、それが即座に予測になるわけではない。

所詮、予想の域を出ない「思い込み」、言い換えれば、これもやはり自分に都合の良い前例を示しただけのひとつのバイアスだ。




お気づきだろうか。


バイアスは、絶対的未来を無意識的に自分に都合のいいように決めてかかる傾向にある心理的作用であると言える。


「自分は大丈夫」という恒常性バイアスも、「~しているから大丈夫」という確証バイアスも、結果、現在無事でいられることをあたかも予想の範囲であったかのように捉える「後知恵バイアス」も、どれもが「絶対的未来」を自分の都合の良い方向に無意識的に「予想」する心理作用だ。




話をしていて、その人の論法、つまり論理の組み立て方を聞くと、その人のバイアスの強弱が見えてくることがある。


極度にバイアスに拘束されるような心理状態なると、自分が持っている考えがすべて正しく、それ以外を認められなくなったりする。


それが「保守性バイアス」だ。




自分の絶対的正当性を声高に叫ぶ点で保守性バイアスと類似しているのだが、「ダメだったのは人のせい、上手く行ったら自分のおかげ」という心理作用がある。

これを「自己奉仕バイアス」という。




バイアスの恐ろしいところは、それがいずれであれ、強固な偏向性や先入観を持つがゆえに、断定的で主観的な思考や言動に陥りやすということだ。


これは、その人自身の心理的問題に留まらないことがままある。


先日のブログで「正常性バイアスを煽るような作用を及ぼすなどということがあってはならない」と述べたの理由はここにある。


バイアスに縛られた独断的・主観的言動で、根拠もなく「自分は大丈夫」という心理状態へと人々を扇動する―あるいはアンカリングすると言ったら良いだろうか―のは大きな害悪だということだ。




このことを理知的に理解し得る人も多いだろうが、誰かがその方向になびけば、自分もそちらを選択した方がいいと思うのも人間の心理だ。


状況が全く分からない中で、突然人々が集団である方向に駆け出したら、自分も思わずそういう行動を取りはしないだろうか。


これが「同調バイアス」(あれ?「同調性バイアス」だったかな・・・って調べろ!笑)。


同じ行動、同じものを選べば安心という心理と言えば伝わりやすいだろうか。


とりわけ日本人に強いと言われるバイアスのひとつだ。


心当たりがある人も少なくないだろう。




ここまでバイアスについて述べてきたが、どうしても悪い側面ばかりが目立ったかもしれない。


が、バイアスも、人間の心の均衡という意味では悪い面ばかりではないことを付記しておく。




最後に、バイアスの象徴的場面だったとされる過去の事件について記しておこう。


2003年、韓国で発生した地下鉄火災事件で200人近くの人が死亡した。


その現場のものとして、煙が充満する車両の中で動くことなく待機する人々の姿が写真に残っている。


証言によると、被害は大きくないので待機するよう車内放送があったとも言われる。


識者はこの事件を「正常性バイアス」の側面のみから説明することが多いようだ。


果たしでそれだけで十分だろうか。


他にもっとさまざまなバイアスが入り組んで人々の行動を生んでいたように思うが、どうだろう。


多様な視点から分析してみることで、事象をより論理的に、かつ、客観的に捉える新たな切り口が見えてくるかもしれない。


バイアスは誰にでもはたらくものであるから、バイアスの負の作用を縮小できるとすれば、それは自身の思考でしかない。


もちろん、それは思考と思い込んだ単なる予想であってはならない。


広く目を向けた情報の集積と確かな知識に裏付けられた上でなされる推論、推察、考察―。


思考とはそういうものだと私は考えるが、皆さんはどうお考えだろうか。





おわりに質問をくださった方へ。


この度はご連絡ありがとうございました。


果たして適切な回答ができたか甚だ心配ではありますが、ブログを通じて大まかに回答させていただきました。


連絡フォームに書かれておりましたが、確かに世の中では小論文指導という名の作文指導、感想文指導があふれています。


薄々お気づきであるように感じましたが、論文は思考の積み重ねであって、作文や感想文とは明確に異なるものと思います。


引用は有用な方法ですが、受け売りだけを羅列しても思考が成立するわけではありません。


模倣から入ること自体は間違いではないと思いますが、最終的な目的はそれを自身の言葉として昇華することです。


ご連絡の文中にあった「薄っぺらい」というのは、自分の言葉を持たない、自身の思考を持たないことに対して感じられたのではないでしょうか。





それから、私は現在は大学とは一切かかわりがありません。


専門だったは教育行政学、米国教育史、教育法です。


大学人から見れば、私の場合、心理学はかじった程度にもならないでしょう(苦笑)。


名前を挙げられた大手一流予備校の講師でもありません。


吹けば飛ぶような学習塾の一講師に過ぎませんので、どこかで会うことも恐らくはないでしょう(笑)。





ご希望に叶うような「ホンモノ」に出会えるといいですね。


是非夢を実現してください。


陰ながら応援しています!

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